はじめに
日本は災害の多い地域です。
地震、津波、噴火、台風…
毎年多くの災害が私たちの国土を襲います。
そして、国内には地理的に大きな災害に見舞われやすい地域があります。
2011年3月11日の東日本大震災で多くの被害を受けた地域で「これからも津波に襲われるかもしれない」という危険を抱えながらも復旧・復興を目指す地域の人々。
そんな姿から、
「なぜ人は災害の多い地域に住むのか」
ということを考えていきます。
火山とともに生きる洞爺湖
先日、洞爺湖を訪れる機会がありました。
洞爺湖といえば、巨大なカルデラ湖です。
この地域では、およそ30年に一度、大きな噴火が繰り返されています。
噴火により、大きな被害が出たこともありますし、新たな噴火口が開いた影響で家を失った人もいます。
直近では2000年に大規模な噴火が起こりましたが、噴火を事前予測し避難を呼びかけたことから、直接的な犠牲者は出ませんでした。
そんな洞爺湖で過ごす時間、僕は実際に有珠山に登り、洞爺湖を眺めました。
そして思ったのです。
「これだけ多くの噴火が起こる場所に、なぜ人々は住み続けるのだろう。」と。
美しい湖、山々、そして素晴らしい温泉。
洞爺湖は本当に魅力的な地域です。
果たしてそれが、洞爺湖に住み続ける理由なのでしょうか。
国内には美しい湖、山々、温泉は他にもあります。
それでも、洞爺湖に住み続ける。
その決断の理由は一体何なのか。
洞爺湖が人々を引き付ける”魅力”の正体はどのようなものなのでしょうか。
津波から立ち上がった気仙沼
僕の大好きな地域に気仙沼があります。
気仙沼は、東日本大震災の津波で多大な被害を受けた地域です。
多くの建物が流され、壊滅的な被害を受けた町並み。
震災から10年経った気仙沼はそこに住む人々の思い・力によって復興し、非常にきれいな海や町並みを取り戻してきました。
そして、素晴らしい大谷海岸。
大谷海岸の砂浜は、津波から町を守るために防潮堤を築くため、一時は取り潰されそうになっていました。
しかし、気仙沼の人々は「この砂浜をなくしてはいけない」と、強い思いで反対し、海とともに生きる町づくりを目指しました。
そうして、海とともに生きる現在の気仙沼ができたのです。
実際に出向くと、盛んな漁業、美しい海、新たにできた施設など、本当に魅力的な町です。
僕自身、これからも何度も訪れたいと思っています。
津波という大きな脅威を抱えてもなお、海とともに生きる町づくりを選択し、そこに留まることを選択した気仙沼の人々。
気仙沼の”魅力”とは一体何なのでしょうか。
地方の”魅力”の正体とは
地方の”魅力”の正体とは何なのでしょうか。
洞爺湖や気仙沼に限らず、多くの人にとって思い入れのある土地はあるかと思います。
僕にも、生まれ育った土地や学生時代を過ごした土地には思い入れがあります。
しかし、その思い入れの正体が何であるのかがよくわかりません。
故郷にも、学生時代を過ごした土地にもそれぞれ良さがあり、もう一度そこで暮らしたいと思う”魅力”があります。
しかしこれは、その地域がほかのどの地域よりも優れているというわけではないということも確かに感じるのです。
国内、そして世界にはもっと美しい自然や文化を持つ土地があります。
もっと便利な町もあるでしょう。
”食”も魅力的ですが、どこか特定の地域が唯一無二の”魅力”をもっているとは考えられません。
それでは、何が人々を地域に引き付けるのでしょうか。
何よりも大きな要因は”記憶”であると考えます。
懐かしさや数々の思い出が、わたしたちを引き付けているのです。
それではなぜ、わたしたちは”記憶”にそこまで影響されるのでしょう。
災害という大きなリスクを背負ってまでその地域に留まる理由とは何なのでしょうか。
ここからは、その要因を大きく2つに分けて考察していきます。
要因①人類は定住を望む生き物
日本の歴史は、人々が狩猟・採集を行い、多くの土地を移り住んでいた縄文時代から始まります。
縄文時代は、1万年以上も続いており、米作りが始まった弥生時代から現在までが約2000年ほどしか経過していないことを考えると、非常に大きなスケールを締めているということがお分かりいただけるかと思います。
そして、歴史の教科書には、
「稲作が始まったことで安定した食料が確保できるようになり、”定住”という新たな暮らしが始まった」
というようにまとめられていますから、”定住”の歴史はそれまでの長い歴史から見ると、比較的浅いものであるといえます。
ですので、
「わたしたちの遺伝子に刻まれているのは各地を移り住む生き方なのではないか」
と考えられるわけです。
しかし、これには疑問点があります。
稲作に話を戻しましょう。
稲作の始まり→定住化
という順序は本当に正しいのでしょうか。
ご存じの通り、稲作とは一朝一夕でどうにかなるものではありません。
そして、稲の可食部(米の部分)を発見したからといって、それらを大量栽培し食料の中心とすることなど本当に思いつくでしょうか。
稲作は、食料を求め多くの地域を移り住む縄文時代の生活のスタイルでは実現不可能です。
ですので、先人は身の回りの食料が枯渇する危険を抱えながら稲を栽培したということになります。
果たして、それほどのリスクを背負った理由は何でしょうか。
その理由は、”定住への思い”なのではないかと考えられます。
わたしたちの祖先には、
「できることなら定住したい」
という思いがあり、”定住”を実現するために稲作が始まった。
そのような順序で考えると、弥生時代という歴史の理解が進むように思われるのです。
現在の歴史の教科書では、突然稲作が始まり、それをきっかけに”定住”が始まります。
しかし本来は「定住したい」という思いから”定住”が始まり、それを維持するために稲作が始まったのではないかと考えられるのです。
つまり、”定住への思い”は私たちの遺伝子レベルに組み込まれているのではないか、ということです。
懐かしさや、ゆかりのある土地に感じる魅力の正体は、そういった習性によるものなのかもしれません。
要因②都市空間は不自然すぎる
都市空間は、人間の手によってつくられた人工物に溢れかえっています。
直角や四角形、円など、自然界にはほとんど存在しないものに囲まれて生活をしているのです。
そして興味深いのは、世のクリエイティブな仕事をする人は、東京であっても中心部ではなく、山手線から私鉄で2駅ほど行った下北沢や三軒茶屋あたりに集まっているということです。
このことから、完全な都市空間よりも自然や生活感のある空間の方が人間の創造性を発揮しやすいのではないかと考えられるのです。
そして、”幸福”という視点から考えても、自然と触れることによって幸福物質セロトニンが分泌されます。
心身の健康にとって、過度に発達した都市空間よりも自然と共生できる空間が望ましいのです。
都市空間は、わたしたちにとってあまりにも不自然ということです。
これからの時代の進むべき方向性
都市集中型の未来を望むのか、地方分散型の未来を望むのか。
この選択は、わたしたちの人生、そして社会にとって、現在向き合わなければならない重要な問題です。
日本では、東京一極集中への道が進んでおり、戦後人口が急増したにもかかわらず(現在は減少局面ですが)、廃村のような状態の地域も増えています。
これからも、故郷への思いや自然との共生という道を捨て、都市集中型の未来を構想していくのか。
それとも、自然とともに暮らす地方分散型の未来を構想・実現していくのか。
あなたはどちらの道を進むべきと考えるでしょうか。
僕自身は、ここまでの検討してきた通り、地方分散型の未来へと進むべきであると考えています。
災害に遭いながらも、故郷を思い、自然とともに生きる人々を見捨ててはいけません。
そして、どこに住むのか選択することは自由だとしても「故郷へ帰る」という道も残していくべきだと思うのです。
まとめ
今回のテーマ「なぜ人は災害の多い地域に住むのか」ということについては、正直僕自身も完全に答えが出せたわけではありません。
しかし、たしかに洞爺湖や気仙沼は素晴らしい土地ですし、この町は将来世代まで残すべきものであるということは確信しています。
都市集中型の未来へ進む現在の社会は、本当に進むべき方向に進んでいるのか。
それとも、自然や食、故郷への思いといった”魅力”を大切に、地方分散型の未来を構想するのか。
これは、あなたにも突き付けられた問いなのです。
あなたはどんな未来を望みますか?
それでは!ありがとうございました!
【参考文献】
「暇と退屈の倫理学」國分功一郎 2015
「シンニホン」安宅和人 2020
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